BLUEMAP FANTASY



第一章 〜囚われの少女〜




第六幕『少女の名』









「――嘘よ……。そんな、そんなことって……」
 フードを被った少女は、額に滲む汗を拭うことなく走った。先ほど見たものを忘れようとするかのように。


――


「ナイト様……」
 伸ばした手の先には何もなく、ただ、目の前は絶望で真っ暗だった。
「あ……」
 いつもと変わらない、目を閉じていた頃よりも暗いこの暗闇が、少女が夢から覚めたことを教えてくれた。

 夢を見ては目覚め、とてつもない虚無感に襲われる。そんな日々を、もうかれこれ幾年も過ごした。
 気の遠くなりそうな年月の中、少女は空想し、演じた。理想の自分を、まだ知らぬ幸せを。
「ホーリーナイト様……」
 夢に現れた男の顔を見たのか、見てないのか。その顔は、ぼやけた姿しか思い出せなかった。
(私の望みを叶えてくれるといったのに)
 あの時心の奥では死を望んでいたのならば、ここはすでに死の世界であるのかもしれない。貴女は既に死んでいると言われても、何の感情も湧いてこない。
――ああ、そうか。
(結局は、どちらを選んでも、あるのは死……)
 自分は、この死の運命から逃れることは出来ない。
 望んだものは、夢の中に消えてしまった。

 死を明日へ控え、生きた心地がしない――とはいうものの、生きているとはどういうことなのだろう。
――どうすれば今、自分が生きていると思える? 己が生きていたと証明できる?

(所詮、夢は夢。本当はわかっていたはず)
 一度目覚めると、先程まで居た場所に戻ることは不可能。夢は儚く、ささやかな祈りを聞いてくれる神はどこにもいない。
「ああ、こんな人生とは。虚しい」
(そして呆気なく、終わってゆくのね)
――果たして私に、この世に生れ出た意味はあったのだろうか。
 少女の嘆きは心の中だけで響く。
「ナイト、様……」
 そして深く、少女が吐いた落胆のため息を知るものは、誰一人として存在しない。


――


「夕食をお持ちしました」
 時を知るのは、いつもこの声がした時。
 食事の時間が来るたび、黒っぽい服の少女がそれを運んで来る。
――重い扉が開くのは、その時だけ。
 闇色の服を着た小柄な少女は、手首にはめられた鍵の束から、慣れた手つきで一つを取り出す。そして、小さな手で淡々と鍵を開ける。
 少女の仕事。他の人間がこの扉を開けているのは見たことがない。
 そして、この部屋の数少ない家具の一つである、簡素な木製テーブルの上に銀色のトレイを置く。
 今日の食事の内容は、いつもより、多少ではあるが豪華なようだ。いつも銀の安っぽい食器に、いつもは病人用であるかのような食事だった。
 しかし特に気になったのは、小皿に乗っている、柔らかそうだが箱のようなそれだ。
円を何等分かに切り取ったような、扇形のそれ。一応、食べ物だとは思う。
「これは、何?」
 そこでふと、少女へ質問を投げかけてみる。
「こちらは、明日へ迎える誕生日のケーキでございます。ささやかですがお祝い申し上げます」
 表情は一つも変わらない。仕事の一つをこなしただけのようで、淡々とそう述べた。
「それでは私はこれにて」
 フリルのあしらわれたエプロンの前で手を揃え、少女は丁寧にお辞儀をする。
 闇色のスカートがふわりと広がると、身を翻す。そうして再び、重いドアの向こうに消えていった。
 ガチャリと鍵の音がした後、そこにさらに鎖もかけられる。
 あの少女は、いつもこんな感じだった。
 冷たいと言えばそう感じる人もいるだろう。でも実はそうではなくて、言葉遣いは柔らかく丁寧なものだ。
――逃げようと思えば、いくらでも逃げられただろう。相手は自分よりも小柄な少女。しかも自分より幼いかもしれない。
 しかし、逃げようという欲などは持ち合わせていなかった。決して逃げられはしないと、心の底では感じでいたのかもしれない。

「誕生祝い……これはどういう皮肉なのかしらね?」
 添えてあった小さなフォークで、ケーキの角をふわりとすくいあげる。
 口に入れた瞬間――甘い。
 ひんやりとしたクリームと、ふわふわの生地。この触感には、予想外の衝撃を覚えた。
(なんて不思議な味なのかしら……)
 “ケーキ”は最後に食べることに。
 それから。普段は食べられない、ローストチキンをナイフで切り取り口に含む。
――またしても口の中に広がり、ゆっくりとはじけていく衝撃。
「私の憎むべき人たちは、いつもこんなのを食べているの!?」
 これはその人からのおこぼれなのかしら……と一人つぶやいていた。


 食事の時間はあっという間に過ぎ、お腹が落ち着いてくる頃合いになった。
 ランプに灯った火が消えるまで、時間もあとわずか。夕食と共にそのランプは運ばれ、その火が消えるとともに1日が終わる。
――少女の夜の始まりである。
 そして今日は最後の夜。
 何故だかわからないが、今日は胸騒ぎがする。明日を迎えるにあたって、やはり動揺しているというのだろうか。
 少女がそんな風に思いを巡られていると、扉の向こうに何やら、人の声がした。
(……誰?)
 少女は壁に近づき、聞き耳を立てる。

「……気づかれないよう時間を稼いでおります。……様も速やかに、ご自分のお部屋へお戻りになりますよう」
 何を言っているのか、はっきりとは聞き取れなかったが、誰かがいるのは確かだった。
 しかも一人ではない。
 会話をするという意味。
 しかし、一人はすぐにその場からいなくなった。
 得体のしれない何かが向こう側から来るような気がした。
 しばらく様子をうかがっていると、小窓の下の方から、何かが見えた。
 こちらから警戒心を露わにする。

「誰!?」
 一瞬びくりと動いたが、向こうにいる人物は恐る恐る、こちらを覗いてきた。
 どちらにも怯えの色が見えるなか、互いに声なくにらみ合う。
 その目の位置からすると、自分と同じくらいの背をした人物らしい。
 少しおどおどとした、震えているかのような、そんな相手の様子が見て取れる。
 そして、ようやく口を動かした。
「あなたは……誰なの?」
 いきなり現れた謎の人物に名前を聞かれるとは、なんだかおかしな気分だ。どうやら向こうは何も知らないらしい。警戒するには値しないようだ。
「私の名前は――」
 こちらの方から告げる。
「もう、必要のない名前だけど」
 牢獄の中の、少女の赤い瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。

「――レナ。私の名前は、レナ・オレリア――」





                              -第七幕へ-





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